2015年11月27日金曜日

暖房全開

急に寒くなったというよりも今までが暖かく過ぎたのだろう。
我が家も先日、灯油を買いに行き、数日前からファンヒーターは
試運転。けさはさすがに朝一番にスイッチオンでした。
冬が近づく!

2015年11月22日日曜日

四季のつぶやき598

■11月になりました。今年もあと2ヶ月。いやあ早いですね。日
中は結構気温も上がりますが、日陰に行くとひんやりします。札
幌では雪が降ったとか?
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▼四季のつぶやき(通算598  2015・11・02) 
★若い頃は人生の終末なんて考えたくもなかった
ひょっとしたら自分だけは永遠に生き続けるのかなあと勝手に思
いこんでいた。そんな時代が懐かしいです。「生老病死」は人に
とって避けられないということはある年齢になって気がつくので
しょうね。
★気のせいなのか、今年はたくさんのスポーツ選手が引退した。
特にプロ野球では新陳代謝が進もうとしています。「引き際」の
難しさは、どこにでもあるものです。もう少しがんばれるのかな
あという思いと、いい年していつまでやるんだという声はどこに
でもあるものです。
★どの世界にも潮時の時期はあると思います。50歳にて球界現役
を退いた中日山本昌はグッドタイミングかあるいは遅すぎたかは
わかりません。ただ遅咲きの選手で中高年への励ましになったと
ともに、若手が十分に育たなかったという面もあるでしょうね。
★自分の周囲を見渡すと自分もいい加減年寄りなのに私よりも一
回りも年配でもまだまだ元気な人はいます。年をとるということ
は、人生の経験の豊かさを次世代に継承させる可能性があるので
すが、やたらと過去の栄光に浸るのも困ったものです。「昔は良
かった」「今の若い者は」なんていう発想だけはしたくないと自
分に言い聞かせています。

◆今週のお気に入り
九州旅客鉄道株式会社(JR九州)サイト
     http://www.jrkyushu.co.jp/index.jsp

 JR四国やJR北海道ほどではないですが九州も東海や東日本、
西日本のように儲かってはいないようです。応援しなくちゃ。
  

2015年11月3日火曜日

その3

4 西三河地域の特性
(1)自然環境
 以上に記した西三河地域の概要を以下にまとめることとする。西三河は地理的には愛知県中央部に位置する。愛知県は知多半島東の衣浦湾・境川ラインの東側は三河部、西側は尾張部になる。その三ヶ根山を境に三河部の西側が西三河になる。西三河の中央部には一級河川矢作川が南北に流れ、その流域の東西に広がる平野が中心の地域である。北は岐阜県・長野県に隣接する北部山間部地域から三河湾に面する南部平野部にまで及ぶ。土地利用状況は農用地が14.4%、森林が52.0%、宅地が9.9%、工業用地が2.4%である。平野部は矢作川・境川の肥沃な沖積層地帯から、近代以降の明治用水あるいは愛知用水の利水によって、特色ある農業地帯が形成された。その典型が「日本のデンマーク」安城である。県都名古屋市から距離にして20キロから30キロに位置することから、その利便性も後の地域社会の発展に寄与した。
(2)産業集積の状況
 その地理的条件が、戦後日本経済の発展とりわけ高度経済成長以降の自動車産業による世界的な一大集積地の形成を成し遂げていくことになる。この地は刈谷市・豊田市を中心に自動車産業+工作機械を中心に機械関連産業とそれと関連のある電気・電子機器関連産業の集積を促していった。雇用の一大市場であったのはいうまでもない。だから全国各地から若年層を中心に豊かな労働力が流入した。
 とりわけこの地域を特徴付けるのは高規格道路を中心とした道路網の整備である。古くは国道1号線が中心部を走り、その南側には国道23号線がはしっていた。それに北部には153号線(飯田街道)が通過し、南北には国道248号線縦断し、さらに155号線が北部から西部にかけて環状線機能を果たしていた。それに加えて高速道路網の整備は、1969年には東名高速道路が開通し大動脈を豊田市の中心部を横断し、後には2005年愛地球博を契機とした、伊勢湾岸道路と東海環状道路の開通によって西三河の外縁に岐阜県東濃・西濃地方や三重県北勢地方まで位置づけられるようになり、しかも国道419号線の衣浦豊田道路としての開通や、国道23号線の国規格道路としての延長拡大、そして衣浦港の整備によってグローバル生産の拠点として位置づけられるようになった。道路は産業道路として機能しているだけではなく、通勤(場合によって通学も含めて)やレジャー・買い物などの生活道路として活用されている。全国どこでも見られるが、商業施設は駅前通りは衰退し、郊外に巨大な大型店が立地し、人々は車で買い物に行く。地域社会が過度に車に依存している典型的な事例である。車があればどこにでも行くことができるが、車を自ら利用することができない弱者にとっては大変厳しい社会である。注15  実際に西三河の鉄道網は東海道本線と名鉄名古屋本線を除くと貧弱で、名鉄豊田線(赤池~豊田市)は1979年に開通したものの、その後に名鉄三河線猿投~西中金、同碧南~吉良吉田は廃線になっている。名鉄西尾線も西尾以南の存続についても話題になっている。
(3)自治体の動向
 西三河は21世紀初頭ではまだ8市9町2村の自治体から成り立っていた。「平成の大合併」を経て、現在では9市1町の自治体になった。だが実際には豊田市プラスみよし市の旧豊田加茂地域、岡崎市と幸田町の旧岡崎額田地域、西尾市幡豆地域の西尾地域、それに碧海5市(刈谷、安城、知立、碧南、高浜)という4つの地域区分の棲み分けは変わっていないものの、微妙な変化もある。碧海5市内部では、刈谷市と安城市の意向・思惑のずれ、さらに根強い自立志向の碧南市の存在など、政府サイドでの強力な誘導がないことには当面は一体化はあり得ない状況である。それに変わって現在進行中なのが、市町村合併や「広域連合」以外の連携の模索である。以前からある「一部事務組合」に加えて、近年は「自立定住圏」という合併を前提としないゆるやかな地域連携の模索も始まった。この地域でいうならば、先に触れた刈谷市、知立市、高浜市、知多郡東浦町の4つの自治体による「広域自立定住圏」である。この動きが今後どうなっていくかは定かではないが、1つの新しい動きとして注目はされよう。
 この地域はこうして現段階では以下のような変容を指摘できる。それはこの地域が企業城下町として性格は残しつつも、確実に変容しつつあることである。
(4)西三河の到達点
①日本の自動車産業の成熟化とともに、グローバル化による生産拠点の分散と国内・海外に移行をあげることができる。トヨタ自動車に限るならば、かつては生産拠点は豊田市と三好町に集中していた。その後国内では碧南の衣浦工場や渥美の田原工場に、そして九州北部や北海道、東北への生産拠点を分散拡大させていった。明らかに過度のトヨタ・自動車への依存からの意識的無意識的脱却という現象がみられ、自動車産業からの離陸・自立が始まりつつある。
②いまや高度経済成長の時代は過去のエピソードである。その時代の担い手であった当時の青年・壮年層の団塊の世代はすでに現役を引退し、高齢者の仲間入りをしている。当時の「入植者」が後期高齢化になり、現在の壮年層は1980年代生まれ以降が主力となり、生まれたときからこの地で育ってきた人々も少なくない。しかも経済の右肩上がりの時代を知らない人々が多数を占めるようになった。こうして地域社会が必ずしも自動車産業だけに依存していた時代とは異なるようになった。西三河の住民の中に、トヨタの恩恵を感じる人の数は少なくなりつつある。
③いびつとはいえ輸送機器産業を中心に繁栄してきたこの地域も、刈谷市や安城市や知立市のように名古屋市という大都市圏の衛星都市あるいはベッドタウンとしての性格を持つ自治体も出現した。みよし市や名鉄豊田線沿線沿いの豊田市北西部もその傾向が出てきた。④しかも近年のCSR(corporate social responsibility)=「企業の社会的責任」やグローバルコンパクトの影響も受け、企業も形だけでも社会的責任を意識せざるをえないようになった。そのことは従来は企業の意向に従属していた自治体・地域社会が現在では表向きは対等の立場になったことを意味する。この変化は地域社会のあり方に決定的な役割を持つようになった。
 そのうえで地域社会の変容と隣接地域との関係も単純でなく相互影響ももたらすようになった視点も重要である。これからの時代の地域社会の特性は閉鎖的な個性を強調するのではなくお互いに隣接地域と関連しながら発展して行かざるを得ないようになる。こうした前提のうえで西三河の地域社会における学校(公教育)はどうなっているかは次の機会に検討することとする。注16
参考文献
安保邦彦『中部の産業----構造変化と起業家たち』清文堂出版、2008
西三河統計協議会編『2014西三河の統計』2014
宮本憲一 , 中村剛治郎『地域経済学入門』有斐閣 1990
岡田知弘『地域作りの経済学入門』自治体研究社、2005
猿田 正機『トヨタシステムと労務管理』 税務経理協会、 1995
猿田正機『トヨタ企業集団と格差社会―賃金・労働条件にみる格差創造の構図』
ミネルヴァ、 2008
塩見治人、梅原浩次郎『トヨタショックと愛知経済―トヨタ伝説と現実』晃洋書房 2011
塩見治人、梅原浩次郎『名古屋経済圏のグローバル化対応—産業と雇用における問題性』、晃洋書房、2013
城山三郎『総意に生きる----中京財界史』文藝春秋、1994
丹辺 宣彦, 山口 博史、岡村 徹也『豊田とトヨタ―産業グローバル化先進地域の現在 』東新堂 2014
都丸泰介他『トヨタと地域社会』大月書店
トヨタ自動車『トヨタ自動車環境報告書2014』2014

1 1914(大正3)年に第一次世界大戦勃発は戦争景気を促し、「豊田自働紡織工業」も個人経営の域を越え、法人組織「豊田紡織株式会社」が1918(大正7)年1月30日に誕生した。株式会社豊田自動織機(TOYOTA INDUSTRIES CORPORATION)の設立は1926(大正15)年11 月18 日のことであり、自動車部を設置は1933(昭和8)年で、大衆乗用車完成記念展覧会開催、自動車製造許可会社に指定は1936(昭和11)年、自動車部を分離しトヨタ自動車工業株式会社(現トヨタ自動車株式会社)の設立は1937(昭和12)年 だった。「トヨタ紡織」HPを参照     http://www.toyota-boshoku.com/jp/about/company/
2 知多地区は尾張とはいえ、他の尾張地区とはかなり様相が異なる。南北に細長い知多半島の東海市や大府市や知多市は名古屋市のベッドタウンの側面があるが、南に行くに従い過疎的傾向が顕著になる。半島北側の西三河に隣接対面部分の東浦町、半田市、大府市などは産業構造は西三河の外延的な位置として機能している。 
3 名古屋市都心部の金山駅からJR沿線の刈谷駅までは快速電車で15分程度、安城駅までは20分程度、岡崎駅までは25分程度で移動が可能で、名鉄沿線の知立駅までも特急で20分弱で移動できる。名古屋市内の周辺に位置するところからよりもスムーズに移動できるメリットがある。
4 トヨタ系などの「生産関係職」でいうならば、普通科高校卒業生にも企業は積極的に門戸を開いてきたし、正規雇用での中途採用も積極的に行ってきた。これは製造業だけでなく、第三次産業である金融・サービス業などでも受け皿として機能した。
5  旧碧海郡の中でも矢作町、六ツ美町は岡崎市に、明治村の一部(米津村、南中根村)は西尾市に、高岡町、上郷町は豊田市に編入しているが、微妙にタイムラグがある。
6  この運動は5市の青年会議所が中心となり、各市に合併協議会の設置のための住民投票条例の設置を求める請願として始まり、碧南市以外では採択されたが、碧南市だけはトヨタ系議員2人の賛成だけであえなく否決された。
7 「定住自立圏」とは「中心市」と「構成市町村」が役割分担し、生活に必要な都市機能を確保するとともに、生活利便性や地域の魅力の向上を図ることを目的に始まった新しい広域連携の施策のことをいう。定住自立圏は、中心市と周辺市町村が1対1の協定を締結することを積み重ねる結果として形成される圏域になる。定住自立圏構想は、協定により連携や協力を図るもので、市町村合併や広域連合とは異なる新たな地域づくりである。
「衣浦定住自立圏」HP https://www.city.kariya.lg.jp/teijyu/jirutsukenkoso/index.html
8  幸田町は西三河の最東部に位置していることもあって、岡崎生活圏と同様、東に隣接する東三河の蒲郡市とも繋がりがあった。現在も火葬は蒲郡市と共同である。
9 公益財団法人日本都市センターのHPを参考に岡崎額田地域の合併の流れを時系列で整理した。 http://www.toshi.or.jp/
10 西尾市は約50ある全国京都会議にも参加しているが、中心市街地が古い町並みを残し、伝統的な行事もあるという理由からである。この是非はおくとして、西尾市が他の西三河の都市と比較して独特な文化の街であるのは否定できない。
11 幡豆郡豊坂村は1906(明治年)に豊国村と松坂村が合併したものである。
12 豊田佐吉発明の「自動織機」を製造するため、愛知県碧海郡刈谷町 (現刈谷市)に株式会社豊田自動織機製作所 〈現株式会社豊田自動織機〉を1926(大正15)年設立。
13 グローバル化の具体的な現れは、トヨタ自動車では海外生産が国内生産を上回る時期であり、大量の日系の外国人が国内に流入する1990年代以降のことである。
14 リーマンショックからトヨタショックに至るまで1年程度の誤差があるが、トヨタに限らず「派遣切り」に代表される非正規労働者の雇い止めは大きな社会問題となった。全国的には「年越し派遣村」が大きな話題を誘ったが、この地でも職にあぶれた労働者の「労働相談」が各地で行われた。
15 新幹線三河安城駅の実態が西三河地域を象徴している。この駅はこだま号しか停車せず、在来線の駅も数百メートルも離れ、他の交通機関はタクシーかマイカーでの送迎が基本である。西三河の各自治体の中学生の修学旅行はこの駅を利用しており、このときは駅周辺では送迎の車であふれかえる。近年この三河安城駅と市街地を結ぶコミュニティバスもやっと開通した。
16 公的試験研究機関やインキュベート施設は名古屋市に集中しているが。研究機関等は岡崎市の旧愛知教育大学跡地に、文部科学省の自然科学系の大学共同利用機関である基礎生物学研究所、生理学研究所、分子科学研究所がある。安城市には愛知県農業総合試験場の水田利用研究室(作物研究部)があり、あいち産業科学技術総合センターが豊田市に、産業技術センターが刈谷市に、三河窯業試験場は碧南市にある。
 大学は刈谷市に1校(愛知教育大学)、岡崎市に3校(人間環境大学、岡崎学園大学、愛知産業大学)、豊田市に3校(愛知工業大学、桜花学園大学、愛知みずほ大学)あるが、産業発展と比較して知的文化的側面は弱いものがある。この点は後期中等教育の現状からも探る必要もある。
                                                  (さくらい よしゆき 研究員)

図表は割愛しました。必要な方は連絡を。
その2 

 本稿は将来の予測を目的とするものではないが、西三河地域での市町村合併の可能性はこの先否定できないが、当面は現在の棲み分けでの自治体構成が続くという判断を当事者はしている。またこの地域の特徴を学校教育から考察すると、職業高校・職業学科の存在によってもうかがい知ることが出来る。この地では高度経済成長期前まで工業高校は岡崎市に1校のみで、高度経済成長期以降に刈谷市(1963)・豊田市(1971)・碧南市(1973)で県立工業高校が設置されている。また農業高校は戦後新制高校設置と同時に安城市・猿投町(当時、現豊田市)・西尾市(当時の実業高校)の3校が存在したことからも、ある時期までは農業地域であったことが認識できる。商業高校は現在も岡崎市の一校が単独校、知立市・碧南市の二校に普通科とともに併設されているに過ぎない。1990年代まで職業高校・学科の再編はなされず、情報関係の学科が設置されたのは1990年代であり、日本経済の産業構造の転換がなされた時期にほぼ対応している。
 この地域の経済発展と新規学卒者の雇用については、トヨタ自動車ならびにトヨタ関連企業に大きく依拠してきたのはいうまでもない。これら企業群は、地元の西三河での高等学校における新規学卒者の受け皿のみならず、全国の新規学卒者の受け皿として存在してきた。これらの企業群は日本経済が右肩上がりの時代であった1990年代初頭までは、職業高校ならびに職業学科のみならず普通科卒業の新規学卒者にも十分すぎるほどの門戸を開いてきた。この地域の1980年代までは、雇用問題が今のような社会問題になることはこの地ではなかった。注4 ただこの区割りは、自治体の行政範囲の変遷によって相互浸透によって微妙な変化もあることも指摘しておきたい。
3 「平成の大合併」による自治体再編(8市9町2村から9市1町へ)
 以上の記述は21世紀になるまでの西三河地域の様相である。だが21世紀になると新しい動きが見られ、現在では自治体も再編成されている。
⑴「碧海市」構想の挫折
 愛知県西三河南部(矢作川以西)に位置する碧海地域とは、旧碧海郡にあった安城、刈谷、碧南、高浜、知立の5市がある地域総体を指す。ただし1995年前後の「昭和の大合併」前後にその一部は岡崎市や西尾市・豊田市に吸収合併されている。注5
 この地域の合併構想は総務省主導のいわゆる「平成の大合併」とはタイムラグがあり、「新生豊田市」や「新生岡崎市」あるいは「新生西尾市」の成立よりも早い時期に「民」主導で動いてきた経緯がある。旧碧海郡5市は現在でも共通の市外電話番号や広域連合としての消防署の設置やJA(農協)の合併や5市をネットワークとしたケーブルテレビ局(KATCH)の設立や公共施設の共同設置など結びつきは強かった。
 たまたまこの5市が旧碧海郡に所属し、衆議院小選挙区愛知13区と一致したこともあって、1990年代以降「碧海市構想」が語られるようになった。1990年代後半には5市の青年会議所のメンバーによって合併協議会の設置を求める請求運動が始まった。この請願は碧南市を除く4市では採択されたが、碧南市は自立意識が住民の中に強く合併問題には拒絶反応があり、結局は頓挫した。注6その後官主導の「平成合併」の動きが活発化するが、そのときにはほとんどこの地では合併の動きはなかった。合併がこの地で成立しなかったのは、碧南市の抵抗と安城市・刈谷市の指導権争いがあったという。当時の合併運動の担い手が5市合併にこだわり、また同じ手法で進めても失敗するのは目に見えていたからであろう。総務省も財政力が相対的に高い自治体が多いこの地域を無理矢理上からの合併を進めて無用な地域内での軋轢を引き起こすよりも、豊田市や岡崎市の方に力を注いだのが利点であるという考えが強かったのが実情である。その後、刈谷市と高浜市・知立市は衣浦湾の対岸にある知多郡東浦町と「自立広域圏」注7 を設立して現在に至っている。
⑵額田町の岡崎市への吸収合併と幸田町の自立
 岡崎地域は岡崎市と隣接する額田・幸田の2町とともに1つの地域社会が形成されていた。平成の大合併の時期に合併論議が盛んになり、山間部が多くこれといった目玉の産業もなく財政事情がよくない額田町は、「平成の大合併」論議の流れに呑まれ岡崎市への吸収合併となった。一方幸田町は、面積は56.72 km²総人口39,776人を擁し、中部工業団地をはじめとした工業団地が形成され、デンソーやソニーやパナソニック有力な大企業の関連会社の立地のおかげで当時は財政事情がまだよかったこともあり、合併ではなく自立の道を選んだ。また町内にJR東海道本線の快速が停車する駅があり国道も248号線と23号線が走っていることでの利便性があったことも町の基盤整備が進んだといえよう。注8
  額田町は用地の大部分が山間部で、合併前の面積は160.27㎢あり旧岡崎市の226.97㎢と合わせると387㎢にもなり名古屋市をしのぐ広大な面積になる。人口は合併当時岡崎市は336,583 人、額田町は9,414 人であり合わせても35万人に満たなかった。財政力指数は旧岡崎市の1.06に対し旧額田町は0.6に過ぎなかった。全国ではこの財政力指数を下回る自治体が数多くあり、しかも合併ではなく自立を目指しているのだが、当時の愛知県内の状況では「合併やむなし論」の方が幅を効かせていた。旧額田町内では合併に反対する議員も存在したし、合併問題を住民サイドから考えて抵抗する住民運動も様々な行動をしたが多勢に無勢であった。旧額田町は農村で農業依存体質で進出企業はスタンレー電気岡崎製作所、デンソー額田テストコース、トヨタ部品愛知共販額田センター、豊田鉄工額田工場など雇用の場は限られ、多くの住民は岡崎など町外への通勤であった。
 合併の経過の時系列的な流れは以下のようである。注9
[岡崎・額田の合併のあゆみ]
2003年7月 額田町からの申し入れにより、岡崎市と幸田町、額田町の1市2町で「岡崎額田地区合併研究会」を設置
2003年9月  額田町の合併に関する住民意向調査の結果で、これによれば回答者の84.7%が合併協議会設置を希望したという。
2003年10月 額田町議会が岡崎市との合併を希望
2003年12月 幸田町議会が合併特例法期限内の合併を見送り、その結果岡崎市と額田町の枠組みで法定協議会を設置し、幸田町は参加しないことを1市2町首長会議で合意
2003年12月 岡崎市・額田町の両議会が合併協議会設置を議決
2004年1  月 「岡崎市・額田町合併協議会」を設置
2004年2 月 第2回合併協議会で新市名は「岡崎市」、合併方式は「編入合併」を確認
2006年1 月 - 額田町が岡崎市に編入し、郡より離脱。
⑶東西加茂郡の豊田市への編入と三好町の自立
 かつてはこの地域は豊田市の周辺の東西加茂郡に7町村(西加茂郡三好町、藤岡町、小原村、東加茂郡足助町。旭町、稲武町、下山村)の自治体があった。全国的に合併論議が進む中で、この地でも法定合併協議会がつくられたが、最終的には三好町は離脱し、この時点で市町村合併は破綻したはずであった。しかしその直後から総務省と結んだ合併推進派の猛烈な巻き返しがあり、仕切り直しによって、あれよあれよという間に三好町を除く町村は豊田市に吸収合併され、新生豊田市の一角を占めるに至った。なお新生豊田市は人口こそ42万人程度であるが、面積は918㎢にもなり名古屋市の2.7倍にもなる県内第一の面積を擁する巨大な自治体となった。知立市や安城市に隣接する南部から最北端の長野県・岐阜県境まで実に70㎞にもなる広大なエリアの自治体が出現した。
 なお旧稲武町は以前は北設楽郡の構成自治体であり、東三河・奥三河として位置づけられてきた。だが旧稲武町は地理的には国道153号線の要路にあり、文化圏としては豊田市と深い関わりをもってきた。実際に住民の少なからぬ部分は豊田市への通勤・通学をしていた。また国税と車両登録関係は北設楽郡の時から西三河での管轄だった。そのこともあって、2003(平成15)年に北設楽郡から東加茂郡に変更され、2005(平成17)年には新豊田市誕生の際には他の町村と共に吸収合併されていった。なお、衆議院の小選挙区だけはこの地域は従来の東三河山間部の自治体と同じく愛知14区(豊橋市、田原市以外の東三河と同じ)である。
⑷幡豆郡三町の西尾市への編入
 西三河南部矢作川以東に位置する西尾市・幡豆郡三町は以前より結びつきもあり、屎尿処理や介護保険などで広域連合を運営していた。西尾市は旧城下町注10ということもあり独自の発展をしていた。一方隣接する幡豆郡は、2011年当時人口58,406人、面積84.56km²、人口密度691人/km²を擁していたが、3町は独自の運営をしていたが、消防組織は、幡豆郡3町で幡豆郡消防組合を運営しており、ゴミ処理については、旧幡豆郡の西尾市を加えた西尾幡豆広域連合で行い、処理場施設は吉良町に設置されていた。額田郡幸田町の西半分は、以前は幡豆郡豊坂村 注11であったが、1954年に幸田町と合併した。 この間周辺自治体との合併は検討されてきたが、長い間実現には至らなかった。ところが当時の市長(榊原康正)が中心となって強力に合併協議を進めた結果、2010年8月27日、幡豆郡3町(一色町・吉良町および幡豆町)との合併調印式が行われ、翌年の2011年4月1日、各町は当市に編入合併した。当時の3町の合併への意向は幡豆町は肯定的、比較的財政事情が良かった吉良町は消極的、一色町は是々非々であったが、「平成大合併」の最後のチャンスという時流に乗せられていった。
3 企業城下町の形成と変容
 企業城下町とは、ある特的の産業・企業の経済力に大きく依存した自治体・地域社会のことをいう。一般的には大都市圏よりも地方にそういう自治体は散在する。製造業では特定大企業の本社工場の立地が見られ、その工場の周辺に関連企業が集積するのが普通の姿である。しかも日本の場合は親会社・子会社という系列取引の関係で、物流コストからも従来的には近隣に関連工場が立地しているのが一般的であった。大量生産を前提として多くの部品から成り立っている自動車産業においては、周辺に工場が立地するのはある意味自然であった。したがって自動車産業の場合は本社工場を中心に企業城下町が形成される根拠があった。(豊田市・刈谷市や富士重工の太田市、ダイハツの池田市、マツダの府中町など)経済のグローバル化が進展していく1990年代までは、いわゆる親会社・大企業の周辺に子会社・中小企業が立地する古典的な企業城下町が中心であった。
 ところで西三河地域が企業城下町的性格を色濃く反映しているのは、この地に日本の自動車産業メーカーの雄であるトヨタ自動車ならびに関連企業が立地されたからである。そもそもこの地に立地されたトヨタ自動車ならびにトヨタ関連企業の起源は大正年間にさかのぼるという。注12 「豊田紡績(現トヨタ紡績)」ならびに「豊田自働織機製作所」が刈谷に立地されたことがルーツである。その後自動車部が発足し大規模の自動車生産のための用地が必要になったとき、候補地としてあがったのは、刈谷市以外にも大府市や半田市、碧南市があったという。ところがどこの用地も高く、当時としては破格値として提供してくれたのは発祥の地である刈谷市から20㎞も離れた挙母町(当時現豊田市)の丘陵地帯であった。後に自動車産業が日本経済を牽引する基幹産業に成長するのは、当事者の願望があっても夢物語であったのは事実であろう。ところがこの地は戦後高度経済成長を経て、愛知・東海・日本を牽引する一大産業集積地として成長していくことになった。
 高度経済成長以降の豊田市・刈谷市を中心とした西三河地域が広範囲な「企業城下町」であったことは多くの人が認めるところとなった。各企業の自治体の歳入の多くが企業の法人税に依存し、なおかつ遅れた社会的インフラの整備を「企業福祉」が補完することによって地域社会が成り立ってきた。実際に道路や病院などの施設はトヨタがまかなってきたものが多くある。また各自治体ではトヨタ自動車ならびに関連企業出身の議員が数多くおり、行政への影響も与えてきた。企業と一体化した地域社会の存続繁栄は誰も疑わなかった。だがこれは1980年代までのことであった。
 ところが1980年代から1990年代にかけて、トヨタ自動車だけでなく日本経済が大きな「激震」に見舞われることになった。1980年代半ばから始まったバブルの宴が1990年代にはじけるとともに従来の日本的システムは大きな転換に迫られることになった。「失われた10年・20年」といわれる時代の始まりであった。それと並行して経済のグローバル化も顕著になった。直接には円高を契機に生産拠点が海外に移転することになった。注13 同時に生産拠点の国内分散化も始まった。自動車産業の成熟化とともに、「経済成長」に依拠する従来のような右肩上がり経済は望めなくなった。日本的労使関係の「三種の神器」といわれた「終身雇用制」「年功賃金」「企業別組合」の動揺も始まった。この地域だけでなく不安定な身分の「非正規雇用の労働者」が数多く出現するようになった。高校生をはじめとした地元の若者の就職先もこれまでと同じような水準で確保するのも困難になった。外国人労働者も流入するようになった。町で工場で学校で外国人の姿を見るのは珍しくなくなった。明らかにグローバル化による地域社会の変化をもたらすようになった。西三河の総体が企業城下町ではあっても、自治体がこれまでのように企業に過度に依存することはなくなった。とともに西三河の各自治体が、様々な方向を模索するようになった。かつてのような単純に企業に依存する「企業城下町」としての性格が薄められようとした。この傾向を促す契機ととなったのが、2007年に始まるリーマンショックからトヨタショックに至る一大パニックに襲われた出来事であった。注14
トヨタが地域社会に与えた影響                         研究ノート
 -----西三河地域の変容についての考察
                                                                      櫻井 善行
図1 西三河の位置と範囲
資料出所 塩見・梅原[2013]P266   櫻井善行 記述部分

はじめに 本稿の目的
 本稿では愛知県西三河地域の特徴を、この地域に大きな影響を与えてきたトヨタ自動車ならびに関連企業との関係で地域社会の変遷を考察するものである。その場合前提としてこの地域に大きな影響を与えてきた、トヨタ自動車を頂点とする企業集団の特性と愛知県西三河地域の特性を統一して捉える必要があると筆者は考える。
 筆者はかつて「トヨタの企業福祉」「トヨタと教育」という表題で拙稿を書いたことがある。(猿田正機編『トヨタ企業集団と格差社会』2007)そこでは大都市名古屋の周辺に位置する西三河地域がかつては日本ではどこにでもあるような農業依存社会に過ぎなかったが、第二次世界大戦中のさなかに設立された株式会社豊田自働織機製作所自動車部から分離したトヨタ自動車工業(後のトヨタ自動車株式会社)注1が、1937(昭和12)年に当時の挙母町(現豊田市トヨタ町)の丘陵地に自動車生産工場を建設したことが、その後の地域社会に大きな影響を与えてきたことを指摘した。その様相は戦後の高度経済成長を経て一気に加速化することになった。高度経済成長期の日本列島での農村から都市化への変容はどこでもみられたが、とりわけこの地域は、周辺には農村の面影を残しながらも工場立地の開始と工業地域へと大きな変貌を成し遂げ、全国から新規学卒者と炭鉱など斜陽産業の離職者らの雇用受け皿として、若者を中心に多くの人々がこの地に流入することになった。当初、地域社会のインフラ整備が地域社会の膨張に追いつかなかったため、住民にとって必要な施設が決定的に不足していたことはよく指摘される。病院がない、交通機関がない、商店がない、学校がない、住む場所がなく保育所や学校のキャパシティも決定的に不足していた。こうした住民の生活に関わる多くの困難に直面したという。その課題に直面したからこそ「企業主導型」の地域社会形成の根拠があった。そこから企業に依存する企業社会と企業城下町が形成されていくことになった。
 とはいっても西三河全体を捉えたとき、必ずしもこの地域のすべてがトヨタの影響を一律に受けてきたわけではない。その地域・自治体の歴史や立地条件によって温度差があるのはいうまでもない。そうした地域内部の特性を考慮しながら地域社会の変容について見ていくことにしたい。そうした現状認識の上でこの地域の学校教育の特徴を考察するのが次の目的・課題となるが、第1部は西三河の地域社会、第2部は西三河の学校教育の予定で筆を進めることとする。第2部は次回以降とする。
第1部は西三河の地域社会
1 西三河の風土と概観
 本稿での理解を深めるために、地域としての西三河の位置と特色をまず考察することとする。西三河は愛知県東部にあたる三河部の西側に位置し、この地のほぼ中央の南北を縦断する矢作川の東西領域に開かれた広大な地域である。かつては多くの自治体があったが「平成の大合併」を経て、現在では9市1町の自治体からなり、面積は1979km2、人口は158万人を擁する地域である。愛知県総体が面積5165km2、人口が744万人、名古屋市は面積326km2 人口が227万人であり、尾張、名古屋市、東三河とともに愛知県内の1つの地域文化圏を形成している。
 本稿で扱う西三河を構成している愛知県は、日本列島の中部に位置し、中部地方の県では最も人口が多く経済的にも豊かで、県庁所在地の名古屋市は中部地方で最大の人口を擁する都市である。愛知県は三大都市圏の一角である中京圏の中心の県であり、製造業を中心に日本経済を大きく支えている地域でもある。
 その愛知は、尾張(含む名古屋)、西三河、東三河の3地域で構成されている。面積比はほぼ 1:1:1、人口比はほぼ 7:2:1になる。愛知県の名称は郡名が県名にされた県の一つで、現在の名古屋市の中心部が所属していた愛知郡に由来しているという。
 尾張地域は面積1,686.53km²、人口5,116,322人であり、政令指定都市として名古屋市があり県庁所在地である。千種区、東区、北区、西区、中村区、中区、昭和区、瑞穂区、熱田区、中川区、港区、南区、守山区、緑区、名東区、天白区の16区からなる。特例市としては一宮市、春日井市があり、その他に21市ある。
 なお尾張は名古屋市と名古屋市外の尾張地区と知多地区に区分され、名古屋市外の尾張地区も尾東(豊明・長久手、日進、瀬戸、春日井、尾張旭の各市と愛知郡東郷町)、尾北(犬山、小牧、江南、岩倉、北名古屋、清須の各市と丹羽郡扶桑町・大口町)、尾西(一宮、稲沢の各市と西春日井郡豊山町)、尾南(津島、弥富の各市と海部郡大治町、蟹江町、飛島村)と区分されることもあるが、三河を東西に区分するほど厳格にはなされていない。知多地区は、尾張とはいえ名古屋市以南の知多半島にある半田、大府、知多、常滑、東海の5市と東浦、阿久比、武豊、南知多、美浜の5町からなる。注2
 西三河地域は面積1,756.60km²、人口1,582,589人で、中核市に岡崎市、豊田市があり、その他の市には安城市 、刈谷市、高浜市、知立市、西尾市、碧南市、みよし市の9市と額田郡幸田町があるが、詳細は以下に記す。
 東三河地域は面積1,662.55km²、人口753,013人で中核市として豊橋市があり、その他の市として豊川市、蒲郡市、田原市、新城市があり、町村には北設楽郡の設楽町、東栄町、豊根村がある。愛知県内では独自性が強い。
 本稿の課題である西三河地域の開発は、岡崎などの城下町や東海道の宿場・交通要地を除けば主に明治以降のことである。平野部の多くは以前は荒れ地が中心で、この地を豊かな農業地帯に変貌させたのは、矢作川の利水を活用した明治用水の存在であった。その恩恵をもっとも受けたのが矢作川西側に位置する「日本のデンマーク」安城市であったが、この地の周辺は全国でも数少ない都市近郊農業が発達した地域でもある。現在も安城市の周辺に位置する碧南市や西尾市、豊田市の南部や北部では特定の農産物に依拠した高いレベルの農業経営が営まれている。
 一方この地は、高度経済成長期には自動車産業の企業城下町である豊田市と刈谷市を中心に工業地帯として成長するようになった。それを支えたのがモータリゼーションであり、トヨタ自動車に代表される輸送機器産業であった。これまでの「元気な名古屋」はこの西三河の製造業の成長・発展によって可能であった。
 ただ西三河地域も1つに単純化することはできない。トヨタという一大企業集団の存在は無視できないが、他方では現在もトヨタとは直接関係のない農業の存在や岡崎市や西三河南部を中心とした伝統的な地場産業の存在も無視できない。歴史ある城下町であった岡崎市だけでなく、高浜市の瓦や西尾市・碧南市を中心とした鋳物などがある。しかもこうした産業基盤以外にも、近年では県都名古屋市に公共交通機関利用によって30分前後で移動可能な利便性にも恵まれ、生活基盤が名古屋のベッドタウン的な機能を果たす自治体も生まれている。注3こうして現在の西三河地域は、旧来の自動車産業に依拠した豊田市・刈谷市の企業城下町だけでなく、様々な要素が混在しているところにその特徴がある。
2 西三河の自治体と地域区分
 その西三河は現在では9市1町の自治体から成り立っているが、これまで一般的には以下の4つのエリアに区分されてきた。
 豊田市と旧東西加茂郡の町村からなる地域で、これまでは周辺の東西加茂郡の5町2村                                        とともに広域行政圏を形成してきた。「平成の大合併」のかけ声を契機に法定合併協議会での論議がなされてきたが、三好町が自立の道を選択して、合併構想は一度は破綻した。だが総務省の指導と合併推進派の巻き返しによって、三好町を除く1市4町2村により、2006年4月に新生の豊田市としてスタートした。この過程で当時北設楽郡稲武町が文化的・地理的な結びつきが強いとして東加茂郡に編入、他の町村と同時に豊田市に編入されることになった。これが豊田市が現在長野県と岐阜県に隣接する理由である。なお、旧三好町はトヨタ自動車の工場が3つもあることから、財政的にも恵まれ、名鉄豊田新線の沿線・名古屋圏東部のベッドタウンとしても位置づけられ、人口急増によって、市への移行要件が成立して2010年1月には「みよし市」としてスタートした。豊田市とは現在も繋がりはあるものの、西三河の他の自治体とは異なった様相を示している。
 岡崎市と旧額田郡2町は西三河では歴史もありもっとも伝統的な地域である。とともに製造業の事業所や官公庁の出先機関もそれなりに立地されており、都市基盤は西三河の中ではもっとも整備されている。「平成の大合併」で額田郡額田町を吸収合併したが、同じ額田郡内では幸田町は自立の道を選んでいる。 
 西三河南部に位置する西尾市と旧幡豆郡3町は、2011年4月に、これまでも屎尿処理や介護保険などで広域連合を形成し、結びつきが強かった隣接する幡豆郡の幡豆・吉良・一色の3町を吸収合併して、新生の西尾市としてスタートした。小さな地域だが独特な役割もある。トヨタ関連企業も進出しているものの、まだ伝統的地場産業があり、産業基盤や生活様式が従来の農漁村的スタイルから完全に脱却しているわけではない。ただこの地が名古屋を核とし、JR東海道本線や名古屋鉄道本線、国道1号線の基軸ルートから外れた地域になるという難点は、一方では独自の地域社会の維持という利点がある。
 碧海5市(衣浦湾東部地域に位置する刈谷・安城・知立・碧南・高浜の5市)では、「平成の大合併」構想よりも早い時期に合併構想がすすめられたが、頓挫した。しかし地理的・文化的繫がりは強く、消防などは一部事務組合として衣浦東部広域連合を形成している。豊田市に次いで製造業に依存し、中でも刈谷市はトヨタグループ企業の典型的な企業城下町として発達してきた。