2016年2月10日水曜日

南スーダン問題資料

きれいに要領よくまとまっています。参考までに。

南スーダン問題学習会
1,最初に「偏見ありき」 
南スーダンがあるアフリカに対する偏見
 「サバンナ、熱帯のジャングル、暑い、動物の楽園、人食い人種」=通俗的なイメージ
「野蛮、停滞、閉鎖的な部族社会、未発達の経済と文化」=インテリのイメージ これらはイギリス、フランス、オランダ、ポルトガル、スペインが16世紀から19世紀にかけて行った奴隷貿易、19世紀末期に本格化した植民地化を正当化するためにでっち上げた偏見である。
 「黒人は人間ではない。生きている動産である」、「黒人をムチ打つ時に上げる悲鳴は動物の生理的反応である」、「進化した人類の最高到達点は白人である。それに対して黒人は人類の退化の極致である」という科学的人種主義によって「学問的に」正当化され、教育やマスメディアによって流布された。これを、日本は無批判に受け入れた。
 30,40年前までの日本人が抱くアフリカは「腰ミノを身につけた黒人が裸でフンバフンバと踊り、白人女性を釜ゆでにして食べる。ライオンやキリンが草原を走っている。ジャングルではゴリラがのし歩き、ターザンが叫びながら木から木へと飛び移る」というものだった。
 さすがに最近はそのような侮蔑に満ちたアフリカ像を持つ日本人はいないように見える。しかし、正確にアフリカを知る人は多くない。多くの日本人にとって世界とは第一にアメリカ、第二にヨーロッパ、そしてアジアである。アフリカは抜けていることが多い。
 アフリカは、人類の直接の先祖であるラミダス猿人が400万年前に誕生した土地である。やがてホモ・サピエンスとなり、アジア、オセアニア、ヨーロッパ、アメリカへと拡散していった。
 日本人のはるか昔の先祖は、アフリカ東部から出発してアジア大陸を横断し、日本列島に到達した。アフリカは日本人の太古の故郷である。
 アフリカはダイナミックな歴史を持っている。ヨーロッパやアジアとは違う形で民族や国家が興亡した。絶えず外部と接触して、独自の国家を形成し、経済、文化を発達させた。ヨーロッパがでっち上げた「停滞したアフリカ」像を捨てるべきだ。
2,スーダンの歴史~古代から近代まで
a,「スーダン」はアラビア語で「黒い人」を意味する。
 元々はサハラ砂漠以南の西アフリカから東アフリカの広い地域を指す言葉だった。これを「歴史的スーダン」と呼ぶ。
b 現在の(北)スーダンと南スーダン
 異なる歴史と、異なる民族、異なる宗教、異なる文化を持ちながら、互いに影響を与えあってきた。
c(北)スーダン~日本よりも古い歴史を持つ国
 古代エジプト人がヌビアと呼んだナイル川上流域の(北)スーダンは金を産出したため、古代エジプトの侵略にさらされてきた。エジプトが強大になるとヌビアに侵攻した。逆にエジプトが弱体化するとヌビアは独立して対抗するパターンを、紀元前4000年紀から4世紀まで繰り返した。
 紀元前2200年頃、南部から移住してきた黒人の集団が、ナイル川第三瀑布付近のケリーマを首都とするクシュ王国を建国した。クシュ王国はエジプト文明の強い影響を受けた。
 エジプトが新王国時代に入り勢力を強めると、トトメス1世はクシュ王国に侵攻し、滅亡させた。エジプト人はヌビア人を支配した。ファラオへの服従とエジプトの神々への信仰、文字(ヒエログリフ)を強制した。
  紀元前900年頃になるとエジプト新王国は衰退した。これを見たヌビア人は、エジプトの支配から脱してクシュ王国を再興した。独立を回復させただけでなく、エジプトに侵攻して第25王朝を建国した。黒人がエジプトのファラオ(王)となった。
 ブラックファラオと呼ばれる第25王朝の王たちは、エジプト人を支配するというよりも、エジプトの再興に力を注いだ。廃れていた祭りの復活などを行った。ヌビア人は長年の支配によって、エジプトの文化、政治制度、技術を完璧に身につけていた。
 紀元前6世紀ごろ、第25王朝は、オリエントと呼ばれる現在のイラク、シリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナ、トルコ南部の地域を支配したアッシリアに攻められ、滅亡した。ヌビア人はヌビアの地に引き揚げた。
 南下するアッシリアの脅威を避けるため、ヌビア人は南のメロエに都を移した。以後、4世紀までメロエ王国として存在した。
 メロエ王国はピラミッドの建設やヒエログリフの使用など、エジプトの強い影響を受けた文化を築いた。メロエ文字と呼ばれる独自の文字も作った。プトレマイオス朝エジプトや古代ローマ、ペルシアとの交流を行った。
 4世紀に入るとメロエ王国は北エチオピアに成立したアクスムによって滅ぼされた。
 その後、ヌビア人の国家はノバティア、マクリア、アルワの三つに分かれた。
 5世紀ごろ、これらの三つの国はキリスト教に改宗した。以後1000年間、現在の(北)スーダンはキリスト教の国になった。
 641年、イスラーム教勢力がヌビアに侵攻した。3つの国は激しく抵抗した。それに手を焼いたイスラーム勢力は停戦協定を結んだ。以後、エジプトのイスラーム勢力とヌビアのキリスト教国は共存した。しかし、協定によって自由な活動を許された商人の布教活動によって、イスラーム教はヌビアに浸透していった。
 その後も繰り返されたエジプトのイスラーム勢力との戦い、新たに興ったイスラーム教国家のフンジ王国とダルフール王国の侵攻により、16世紀までにヌビアのキリスト教国家は滅亡した。人々はキリスト教を捨てイスラーム教に改宗した。に改宗したことで、アラビア語とアラブ文化を受け入れた。ヌビア人はアラブ人となっていった。これが現在の(北)スーダンを構成する民族となった。
 19世紀に入ると、フンジ、ダルフール王国はムハンマド・アリー朝のエジプトに征服され滅んだ。エジプトはさらに南下し、現在の南スーダンにまで領土を広げた。これが南北スーダンの原型になった。
 領土を拡大したエジプトではあったけれど、近代化や軍備増強の資金をイギリスからの借金に依存していたため、しだいにイギリスの干渉を受け、半植民地状態に置かれるようになった。これに不満を抱いたエジプト民衆は1882年、オラービー革命を起こした。しかしイギリス軍が介入して革命は失敗した。エジプトは完全にイギリスの植民地になった。当然(南北)スーダンもイギリスの直接支配を受けることになった。
 異教徒の国であるイギリスの支配に、スーダン民衆は危機感を抱いた。
 1884年にムハンマド・アフマド・イブン・アブダッラーという人物が、マフディー(救世主)を自称して、武装蜂起した。マフディー軍は民衆の支持を受けて勢力を伸ばし、スーダン全域を支配した。ついにはマフディー軍鎮圧のために派遣されたチャールズ・ゴードン将軍(清国で常勝軍を指揮して太平天国の乱を鎮圧した)を1885年に戦死させた。さらにエジプトへ侵攻しようとした。
 これを重く見たイギリスは、1896年にスーダンへ軍を派遣してマフディー国家を潰そうとした。アームストロング砲とマキシム機関銃を装備したイギリス軍はマフディー軍と激戦を繰り広げた。1899年11月、イギリス軍はマフディー国家を壊滅させた。この戦争によって、(南北)スーダンは完全にイギリス(名目上はエジプトとの共同統治)の植民地になった。独立を回復したのは1956年のことだった。
d 南スーダン~王なき民族、王がいる民族のモザイク
 世界最長の大河であるナイル川は、(北)スーダンの首都であるハルトゥームで、エチオピア高原から流れる青ナイル川とビクトリア湖から流れる白ナイル川が合流する。
 白ナイル川をさかのぼると、南スーダンに入ったあたりで、アラビア語で障壁
を意味するスッド(大湿地地帯)が広がる。東西約300キロ、南北400キロ、
乾期の面積は約3万キロ、雨期では約13万キロに広がるスッドは、南下する古代エジプトやイスラーム勢力を阻む壁となった。そのため、(北)スーダンのように、古代エジプトやイスラーム教の強い影響を受けなかった。これにより、(北)スーダンとは違う歴史と文化を形成していった。
 (北)スーダンを構成するのはアラブ人(正確に言えばアラブ化した黒人)なのに対して、南スーダンに住むのはナイロート系の言語を話すシルック、ディンカ、ヌエル、アニュアク人である。
 (北)スーダンは古代エジプトの影響を受けて古代から中央集権的な国家を形成してきた。これに対して南スーダンを構成する五つの民族はそのような国家を建設しなかった。というより、出来なかったのである。
 (北)スーダンはナイル川の水を利用した灌漑農業が盛んだった。そのため富の蓄積と社会の階層分化が進んだ。それに対して、南スーダンの諸民族は牧畜や漁業、家族単位の小規模な農業が主であった。貧富の差は生まれようがなかった。中央集権的な国家を形成する条件ではなかったのである。優れているとか、劣っているかという問題ではない。
 シルック人はレス(王)がいる。それが他の民族とは違う。17世紀に確立されたシルックの王政は今も続いている。ただし、宗教的権威だけの存在だ。
 ディンカ人、ヌエル人は王がいない無頭制社会である。
 5つの民族は互いに抗争を繰り返してきた。そのため民族間の関係はよくない。しかし、抗争をしている民族が排除されることなく、同じ地域の中で一緒に生活している。異なる民族間の結婚も普通に行われている。
 異なる民族がモザイク状に住む南スーダンを、しばしば脅かしたのが、古代エジプト時代から行われた奴隷狩りであった。これから逃れるためにスッドに逃げ込んだという説があるくらいである。 
 奴隷狩りはイスラーム勢力も受け継いだ。イスラーム教の教えでは、同じイスラーム教徒を奴隷にするのを禁止している。しかし、異教徒を奴隷にするのは黙認された。それで、アニミズムやキリスト教を信じる者が多い南スーダンに奴隷を求めた。
 ただし、その奴隷制度は南北アメリカ、カリブ海とは大きく異なった。家畜、生きている動産とされた南北アメリカとカリブ海の奴隷は、その身分から逃れることはできなかった。死ぬまで奴隷だった。それに対して、イスラーム世界の奴隷は、イスラーム教に改宗し、運と才能があれば奴隷身分から解放された。軍人や官僚として出世さえできた。例えばモロッコの国王であるハッサン二世の曾祖母は黒人奴隷だった。
e 独立はしたものの、内戦とクーデターの繰り返し
 マフディー国家を滅ぼしたイギリスは、(南北)スーダンの植民地支配を進めた。ハルトゥーム周辺のナイル川一帯を綿花の生産地にした。これに対し(北)スーダンでは1924年以降に独立運動が起こった。それでイギリスはスーダンを南北に分断して統治する方法をとった。マラリア予防の名目で北緯8度以北の者が南へ、北緯10度以南の者が北へ行くことを禁止した。南北分断統治によって、北スーダンと南スーダンの一体化は阻まれた。これが独立後の内戦の一員となった。
 1956年1月1日、スーダンはイギリスから独立した。その日から、第一次スーダン内戦が始まった。内戦が始まったのは、新しく生まれたスーダン政府がアラブ系に牛耳られていたからだった。内戦は1972年のアディスアベバ合意まで続いた。この間、アラブ系が主導するハルトゥームの中央政府はクーデターを繰り返した。そして南スーダンの諸民族に国家統合の名の下に、イスラーム教とアラビア語を強制する政策を進めた・
 1972年のアディスアベバ合意で一旦は内戦は収まった。しかしアラブ系が権力を独占する構図は変わらなかった。南部で発見された油田の利権をアラブ系が独占したことでも5つの民族の不満が高まっていった。
 1983年、ジョン・ガランの指導のもと、南スーダンのディンカ人が主体となってスーダン人民解放軍(SPLA)が結成され、政府軍との戦争を始めた。第二次スーダン内戦だった。同年9月、当時のヌメイリ政権がシャリーア(イスラーム教の法律)を全土で適用させると宣言したことで、反発がさらに強まり、内戦が激化した。
 内戦は泥沼と化し、おりからの干ばつとエチオピアからの難民流入でスーダンは危機的状況に陥った。その中で中央政府が起こしたのが「史上最大の人権侵害」とされた2004年のダルフール紛争だった。
 チャドに面したダルフール地方ではフール人、マサリート人、ザガワ人とアラブ人との対立が深刻化していた。ついに武力衝突が起こった。スーダン政府はアラブ人に味方した。アラブ人が結成した武装組織ジャンジャウィードに露骨に肩入れした。スーダン政府軍はジャンジャウィードに武器を供与し、軍事訓練を行った。
 ジャンジャウィードとスーダン政府軍はダルフールで虐殺、拷問、略奪、レイプをほしいままにした。この「民族浄化」によって、数千人が虐殺され、100万人以上が難民になった。これにより、スーダン政府に対する非難が集中した。2009年には、国際刑事裁判所(ICC)がオマル・ハサン・アフマド・アル=バシール大統領に対して、集団殺害、人道に対する罪、及び戦争犯罪により逮捕状を出すまでに至った。
 2005年1月9日には南北包括和平合意(CPA)がなされ、第二次内戦が終結した。この内戦の死者は約250万人だった。数百万人が難民になった。経済は疲弊し、国土は荒廃した。スーダンは破綻国家になった。
 2005年7月、バシールを大統領、SPLAのジョン・ガラン最高司令官を第一副大統領とする暫定政府が発足した。暫定政府が6年間の統治を行なったうえで南部で住民投票を実施し、北部のイスラム教徒系政権と南部政府の連邦を形成するか、南部が独立するかを決めることになった。
 これでやっと平和になるかと思いきや同年7月30日に副大統領となったばかりのガランが、ウガンダ訪問からの帰途に事故死した。バシール大統領の陰謀だとして、SPLAの支持者がアラブ系住民を襲撃した。また、SPLAは3つに分裂した。SPLAの分裂は南スーダンに不安定の種をまくことになった。
 2011年7月9日、住民投票の結果により、南スーダンはスーダンから分離独立した。 当初、石油資源が豊富で、豊かな農業地帯が広がる南スーダンは順調に発展するだろうと言われた。
 ところが、念願の独立を果たした2011年と翌年の12年に、(北)スーダンと国境紛争を起こした。いずれも油田がある地区の帰属を巡ってだった。さらに、2013年12月14日、同年7月に解任されたマシャール副大統領派によるクーデター未遂事件が起こった。石油利権の奪い合いと見られている。このクーデター未遂事件により戦闘が発生し、190万人が難民となった。
 このように政情が不安定なため、南スーダンの油田や農業などの開発は進んでいない。失業率は高く、生活は貧しい。道路や鉄道、水道などのインフラの整備は未発達だ。教育や医療設備は存在しないに等しい。のべ50年間にわたる内戦が原因だ。。
 米国のシンクタンクの一つである平和基金会が発表している失敗国家ランキングでは、2014年・2015年の2年連続で南スーダンは1位となった。
 現在も南スーダンの政治状況は不安定である。
 この国へ日本は自衛隊を派遣している。
     
                                                    参考文献:『新書アフリカ史』
                                                              宮本正興、松田素二
                                                      講談社現代新書 2004年