2016年4月3日日曜日

名松線復活

北海道新幹線の開通が全国版ニュースの話題であった3月26日、東海の本当にローカルな路線が復旧した。こちらの方が失礼ながら何十倍も価値ある物に思えた。

 

JR東海が「不通路線」を復旧した本当の理由

東洋経済オンライン 4月2日(土)6時0分配信
 北海道新幹線の開業で日本中が沸いた3月26日、別の列車に手を振っていたエリアがある。三重県津市の美杉町と白山町を中心した一帯だ。このエリアは三浦しをんの小説「神去なあなあ日常」の舞台として知られ、清流と森林が広がる静かな山あいの町である。

 同地区にとって唯一の鉄路であるJR名松線(松阪―伊勢奥津間)が2009年10月の台風18号で被災し、家城―伊勢奥津間が不通となっていた。被災から6年5カ月を経て復旧工事が完了し、ようやく運行開始となったのだ。9時35分、大勢の地域住民に祝福されながら、伊勢奥津からの一番列車が松阪に向けて出発した。

 「北海道新幹線と比べたら規模は小さいが、私たちは胸を張っていい。名松線のほうが地域に愛されている鉄道であることは間違いない」。鈴木英敬・三重県知事が感無量の表情で言う。「地域に愛されている鉄道」という言葉にうそはない。名松線の復旧には鈴木知事がこう言い切るだけの紆余曲折があったのだ。

■ 競合路線が先に開業

 名松線は松阪から名張までを結ぶ計画だったことから、両地名の頭文字を取って名松線と名付けられた。1929年に松阪―権現前間が開通したが、翌1930年に参宮急行電鉄(近畿日本鉄道の前身)が先に名張―松阪間を別ルートで開通させた。そのため名松線は、1935年の伊勢奥津間までの延伸を持って、名張までつながることなく、終わってしまった。

 都市間を結ぶ構想がついえた名松線は利用者が伸びず、国鉄時代には廃止対象となったことがある。その後も利用者は年々減少の一途をたどり、被災前の家城―伊勢奥津間は、1日の乗車人員わずか90人という全国屈指の赤字区間だ。

 そこへ2009年10月に台風が直撃。線路内への土砂流入や盛土の流出など被害は甚大で、復旧費用が膨大な金額に及ぶことは容易に予想された。被災後はバスによる代行輸送が行なわれていたが、このまま復旧されることなく路線バスに移行されるのではと、住民の誰もが危機感を募らせた。

 「鉄路を残さなあかん」。5900人の沿線住民が立ち上がった。2006年に旧・美杉村や白山町など9市町村と合併して現在の姿になった津市にとっても、「市民の心を一つ」にする機会だった。津市だけはない。隣の松阪市の住民も動いた。竹上真人・松阪市長はこう振り返る。「名松線の”松”は松阪の”松”やろ、とおしかりを受けました」。
復旧に向けた運動は三重県全体に広がり、2009年11~12月に11万6268人の署名が集まった。沿線人口をはるかに超える数字だ。

 沿線住民の要望に対して、JR東海は「鉄路の維持は社会的使命。赤字という理由だけで廃線にすることはない」としながらも、「鉄道を元通りにするだけでは安全運行できない」と、懸念を示した。「家城―伊勢奥津間は山林を含めた周辺部が鉄道に与える影響が大きい。治山、治水対策は、県や自治体が責任を持って復旧してもらいたい」。

 せっかく鉄道を復旧しても、周辺の山の斜面が再び崩れるようなことがあれば、元の木阿弥だ。JR東海のスタンスは、周辺が整備されなければ、このままバス転換もやむなしというものであった。

 一方、県と市のスタンスは「運行ができないほどの危険性はない」として、周辺対策には消極的だった。が、JR東海、県、市という三者会談が何度も繰り返され、ようやく県が治山対策、市が水路整備対策を行なうという方向性が定まった。これを受けてJR東海も鉄路復旧に合意し、県、市、JR東海との間で三者協定が締結された。2011年5月。被災から1年7カ月が経過していた。

■ 運転再開までの期間は日本記録

 工事は2013年5月にスタートし、今年2月に完了。その後の乗務員の訓練運転を経て運転再開にこぎつけた。「被災から6年5カ月かかっての再開。この長さは日本記録」と、前葉泰幸・津市長は言う。確かに東日本大震災による被災で、駅舎や橋が流された三陸鉄道ですら、3年で全線復旧にこぎつけた。その2倍を超える長い年月、名松線の沿線住民は応援を続けていた。

 費用総額は17億1000億円だ。三重県が5億円、津市が7億5000万円、JR東海が4億6000万円を負担した。津市の負担額は当初、県と同額の5億円を負担する予定だったが、「下流の整備も必要となり、当初計画も費用が膨らんでしまった」(市の担当者)。
 
 
 
運行再開を迎えた3月26日、伊勢奥津駅は、再開を祝う沿線住民であふれかえった。初日の利用者は2600人。北海道新幹線の開業初日の利用者数1万4200人と比べても大健闘の数字だ。翌27日は1300人、3日目の28日も300人が利用した。ただ、被災前に1日90人しかいなかった利用者は、代行バス運行期間中にさらに減ってしまった。今後、被災前の利用者数をどこまで上回ることができるかが、大きな課題となる。「被災前よりも多くの人に乗っていただいて、地域に活気が出て、ようやく復旧してよかったと言える」と、JR東海の柘植康英社長は語る。

 利用者増に向けた取り組みの一つが、観光客の呼びこみである。5月には伊勢志摩サミットが開催される。三重県の魅力を世界中にアピールする絶好の機会だ。風光明媚な名松線沿線にも観光客を呼び込みたい。市は沿線にパークアンドライドを2箇所設置し、無料のレンタサイクルも設置した。

■ 名松線の復活に学べ

 「名松線は乗ることを目的とした列車になってほしい」と、前葉市長は期待する。「乗ることを目的とした列車」とは、全国で最近増えている観光列車を指す。JR東海にはそのような観光列車を作る計画はない。が、他社事例を見ていくと、JR西日本が地元自治体の資金援助を受けて、観光列車「みすゞ潮彩」号を走らせた実績もある。「もし実現しそうなら、予算はかき集める」(市の担当者)。ひょっとしたら将来、名松線にも、観光列車が走る日が来るかもしれない。

 現在、JR北海道の赤字路線を中心に、全国で廃止が取りざたされている路線は少なくない。だが、「鉄路を残せ」という掛け声だけでは、何も進まない。名松線が運転再開にこぎつけた本当の理由は、県や市、そしてJR東海が多額の資金負担を辞さなかったからだ。どうすれば、自治体やJRに重い腰を上げさせることができるか。これこそが鉄路維持の原動力となる。
大坂 直樹