2010年4月2日金曜日

救われた24歳男性

【毎日新聞】ライフスタイル > 就職・転職 - 2010.04.01公設派遣村:救われた24歳男性、定時制入学 「最悪の人生変える」‎http://mainichi.jp/life/job/news/20100401ddm041040186000c.html
<追跡> 年末年始に開設された公設派遣村から約3カ月。厳しい雇用情勢は今も続き、村に助けを求めた人の中には、いまだに仕事がない人が多い。そんな中、村で救われた24歳の男性がこの春、東京都内の定時制高校に入学し、新たな人生をスタートさせる。中学卒業後、建設現場や派遣労働の現場を渡り歩いたが、そのたびに人にだまされ、卒業後の半分は野宿生活。派遣村で支えてくれる仲間に出会い、野宿を脱した。「おれの人生最悪や」。口癖のようにつぶやいていた言葉に別れを告げる。【東海林智】
◇支援者説得、ほどけた心 男性は中学卒業と同時に働き始めた。とびの仕事で、多い月には60万円の収入があった。しかし、酒を飲んでは家族に暴力をふるう父に我慢できず、母と弟を連れて逃げ出した。関西で3人で暮らし始めたが、母が消費者金融に借金をし、弟だけを連れて蒸発。1人残され、借金取りが押しかける家に帰れず、寝袋一つを買って野宿を始めた。 ホスト、訪問販売、建設の日雇い……。職を選ばず働いたのに、いつも最後はだまされたり、暴力が待っていた。建設の仕事では、寮の先輩に脅され、借金をさせられて巻き上げられた。借り入れ限度を超えると、知らない男の養子にさせられ、その名義でまた借金を強いられた。自分の名字までも失った。 そんな中、就職雑誌で自動車工場での派遣労働を見つけた。08年9月から広島で働き、今までで一番安定しているように思えた。しかし、2カ月後に機械に指を挟んで骨折。上司は「かすり傷」と言うが、腫れた指では仕事ができない。「来なければクビ」と言われ、また仕事を失った。労災保険ももらえず、野宿生活に戻った。 最後の望みをかけてたどり着いた東京でも同じことの繰り返しだったが、ハローワークで知った公設派遣村に行くと、親身になって相談に乗ってくれるボランティアがいた。「もう一回、人を信じてみよう」。助言を聞いて生活保護を申請し、アパートを確保した。 「アパートで何がやりたい?」。ボランティアの問いに「鍋会やりたい。みんなで」と答えた。4畳半の“新居”にボランティア7人を含む9人がすし詰めで開いた会だったが、「おいしいなあ。楽しいなあ」と何度も口にした。肩寄せ合って食べる食事は、10年間かなわなかった家庭の味そのものだった。人を信じられず固まっていた心がほどけた。 ボランティアたちは定時制高校への進学を勧めた。男性は「今さら学校なんて」とかたくなに拒んだが、男性の心を変えたのは、生活保護で担当になったケースワーカーの言葉だった。「だまされてひどい目にばっかり遭ってきた人生を変えよう。学ぶことで変えられるんだ」。粘り強い説得に、「最悪やった人生を変えたい」と思うようになった。労働基準法、雇用保険、生活保護……。身を守るすべを知らずに生きてきた。男性は今の日本で「普通に働いて、普通に暮らす」ことがいかに難しいか、身をもって知っている。 高校が始まったら、やりたいことがある。「夜、野宿者に声をかけて回る『夜回り』をやりたい。若い野宿者が多いから。希望もなくただ生きるだけの場にいる若者に声をかけ、『一緒に生きよう』って伝えたい」。そんな活動をする仲間をたくさん作りたい、と思っている。
◇「就職した」2人だけ 市民団体アンケート、76人回答 公設派遣村は昨年末、仕事も住居も失った労働者を支援しようと、国の方針を受け東京都が主体となって開設した。 きっかけは一昨年の年末、雇い止めにされた派遣労働者などに寝場所と食事を提供し、生活再建の支援をしようと労働組合や市民団体が開いた「年越し派遣村」。 新政権は「年越し派遣村を繰り返さない」と、年末年始に国の責任で労働者を支援した。都のまとめでは、860人が公設派遣村を利用した。 公設派遣村を支援した労組や市民団体などで作る「年越し派遣村が必要ないワンストップ・サービスをつくる会」(代表・宇都宮健児弁護士)が実施したアンケートの中間報告(3月26日現在、76人回答)では、「仕事が決まり働いている」は2人、「仕事が決まった」は1人にとどまる。 「探している」が33人、「見つからず、単発の仕事をしている」が9人

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