2015年11月3日火曜日

その2 

 本稿は将来の予測を目的とするものではないが、西三河地域での市町村合併の可能性はこの先否定できないが、当面は現在の棲み分けでの自治体構成が続くという判断を当事者はしている。またこの地域の特徴を学校教育から考察すると、職業高校・職業学科の存在によってもうかがい知ることが出来る。この地では高度経済成長期前まで工業高校は岡崎市に1校のみで、高度経済成長期以降に刈谷市(1963)・豊田市(1971)・碧南市(1973)で県立工業高校が設置されている。また農業高校は戦後新制高校設置と同時に安城市・猿投町(当時、現豊田市)・西尾市(当時の実業高校)の3校が存在したことからも、ある時期までは農業地域であったことが認識できる。商業高校は現在も岡崎市の一校が単独校、知立市・碧南市の二校に普通科とともに併設されているに過ぎない。1990年代まで職業高校・学科の再編はなされず、情報関係の学科が設置されたのは1990年代であり、日本経済の産業構造の転換がなされた時期にほぼ対応している。
 この地域の経済発展と新規学卒者の雇用については、トヨタ自動車ならびにトヨタ関連企業に大きく依拠してきたのはいうまでもない。これら企業群は、地元の西三河での高等学校における新規学卒者の受け皿のみならず、全国の新規学卒者の受け皿として存在してきた。これらの企業群は日本経済が右肩上がりの時代であった1990年代初頭までは、職業高校ならびに職業学科のみならず普通科卒業の新規学卒者にも十分すぎるほどの門戸を開いてきた。この地域の1980年代までは、雇用問題が今のような社会問題になることはこの地ではなかった。注4 ただこの区割りは、自治体の行政範囲の変遷によって相互浸透によって微妙な変化もあることも指摘しておきたい。
3 「平成の大合併」による自治体再編(8市9町2村から9市1町へ)
 以上の記述は21世紀になるまでの西三河地域の様相である。だが21世紀になると新しい動きが見られ、現在では自治体も再編成されている。
⑴「碧海市」構想の挫折
 愛知県西三河南部(矢作川以西)に位置する碧海地域とは、旧碧海郡にあった安城、刈谷、碧南、高浜、知立の5市がある地域総体を指す。ただし1995年前後の「昭和の大合併」前後にその一部は岡崎市や西尾市・豊田市に吸収合併されている。注5
 この地域の合併構想は総務省主導のいわゆる「平成の大合併」とはタイムラグがあり、「新生豊田市」や「新生岡崎市」あるいは「新生西尾市」の成立よりも早い時期に「民」主導で動いてきた経緯がある。旧碧海郡5市は現在でも共通の市外電話番号や広域連合としての消防署の設置やJA(農協)の合併や5市をネットワークとしたケーブルテレビ局(KATCH)の設立や公共施設の共同設置など結びつきは強かった。
 たまたまこの5市が旧碧海郡に所属し、衆議院小選挙区愛知13区と一致したこともあって、1990年代以降「碧海市構想」が語られるようになった。1990年代後半には5市の青年会議所のメンバーによって合併協議会の設置を求める請求運動が始まった。この請願は碧南市を除く4市では採択されたが、碧南市は自立意識が住民の中に強く合併問題には拒絶反応があり、結局は頓挫した。注6その後官主導の「平成合併」の動きが活発化するが、そのときにはほとんどこの地では合併の動きはなかった。合併がこの地で成立しなかったのは、碧南市の抵抗と安城市・刈谷市の指導権争いがあったという。当時の合併運動の担い手が5市合併にこだわり、また同じ手法で進めても失敗するのは目に見えていたからであろう。総務省も財政力が相対的に高い自治体が多いこの地域を無理矢理上からの合併を進めて無用な地域内での軋轢を引き起こすよりも、豊田市や岡崎市の方に力を注いだのが利点であるという考えが強かったのが実情である。その後、刈谷市と高浜市・知立市は衣浦湾の対岸にある知多郡東浦町と「自立広域圏」注7 を設立して現在に至っている。
⑵額田町の岡崎市への吸収合併と幸田町の自立
 岡崎地域は岡崎市と隣接する額田・幸田の2町とともに1つの地域社会が形成されていた。平成の大合併の時期に合併論議が盛んになり、山間部が多くこれといった目玉の産業もなく財政事情がよくない額田町は、「平成の大合併」論議の流れに呑まれ岡崎市への吸収合併となった。一方幸田町は、面積は56.72 km²総人口39,776人を擁し、中部工業団地をはじめとした工業団地が形成され、デンソーやソニーやパナソニック有力な大企業の関連会社の立地のおかげで当時は財政事情がまだよかったこともあり、合併ではなく自立の道を選んだ。また町内にJR東海道本線の快速が停車する駅があり国道も248号線と23号線が走っていることでの利便性があったことも町の基盤整備が進んだといえよう。注8
  額田町は用地の大部分が山間部で、合併前の面積は160.27㎢あり旧岡崎市の226.97㎢と合わせると387㎢にもなり名古屋市をしのぐ広大な面積になる。人口は合併当時岡崎市は336,583 人、額田町は9,414 人であり合わせても35万人に満たなかった。財政力指数は旧岡崎市の1.06に対し旧額田町は0.6に過ぎなかった。全国ではこの財政力指数を下回る自治体が数多くあり、しかも合併ではなく自立を目指しているのだが、当時の愛知県内の状況では「合併やむなし論」の方が幅を効かせていた。旧額田町内では合併に反対する議員も存在したし、合併問題を住民サイドから考えて抵抗する住民運動も様々な行動をしたが多勢に無勢であった。旧額田町は農村で農業依存体質で進出企業はスタンレー電気岡崎製作所、デンソー額田テストコース、トヨタ部品愛知共販額田センター、豊田鉄工額田工場など雇用の場は限られ、多くの住民は岡崎など町外への通勤であった。
 合併の経過の時系列的な流れは以下のようである。注9
[岡崎・額田の合併のあゆみ]
2003年7月 額田町からの申し入れにより、岡崎市と幸田町、額田町の1市2町で「岡崎額田地区合併研究会」を設置
2003年9月  額田町の合併に関する住民意向調査の結果で、これによれば回答者の84.7%が合併協議会設置を希望したという。
2003年10月 額田町議会が岡崎市との合併を希望
2003年12月 幸田町議会が合併特例法期限内の合併を見送り、その結果岡崎市と額田町の枠組みで法定協議会を設置し、幸田町は参加しないことを1市2町首長会議で合意
2003年12月 岡崎市・額田町の両議会が合併協議会設置を議決
2004年1  月 「岡崎市・額田町合併協議会」を設置
2004年2 月 第2回合併協議会で新市名は「岡崎市」、合併方式は「編入合併」を確認
2006年1 月 - 額田町が岡崎市に編入し、郡より離脱。
⑶東西加茂郡の豊田市への編入と三好町の自立
 かつてはこの地域は豊田市の周辺の東西加茂郡に7町村(西加茂郡三好町、藤岡町、小原村、東加茂郡足助町。旭町、稲武町、下山村)の自治体があった。全国的に合併論議が進む中で、この地でも法定合併協議会がつくられたが、最終的には三好町は離脱し、この時点で市町村合併は破綻したはずであった。しかしその直後から総務省と結んだ合併推進派の猛烈な巻き返しがあり、仕切り直しによって、あれよあれよという間に三好町を除く町村は豊田市に吸収合併され、新生豊田市の一角を占めるに至った。なお新生豊田市は人口こそ42万人程度であるが、面積は918㎢にもなり名古屋市の2.7倍にもなる県内第一の面積を擁する巨大な自治体となった。知立市や安城市に隣接する南部から最北端の長野県・岐阜県境まで実に70㎞にもなる広大なエリアの自治体が出現した。
 なお旧稲武町は以前は北設楽郡の構成自治体であり、東三河・奥三河として位置づけられてきた。だが旧稲武町は地理的には国道153号線の要路にあり、文化圏としては豊田市と深い関わりをもってきた。実際に住民の少なからぬ部分は豊田市への通勤・通学をしていた。また国税と車両登録関係は北設楽郡の時から西三河での管轄だった。そのこともあって、2003(平成15)年に北設楽郡から東加茂郡に変更され、2005(平成17)年には新豊田市誕生の際には他の町村と共に吸収合併されていった。なお、衆議院の小選挙区だけはこの地域は従来の東三河山間部の自治体と同じく愛知14区(豊橋市、田原市以外の東三河と同じ)である。
⑷幡豆郡三町の西尾市への編入
 西三河南部矢作川以東に位置する西尾市・幡豆郡三町は以前より結びつきもあり、屎尿処理や介護保険などで広域連合を運営していた。西尾市は旧城下町注10ということもあり独自の発展をしていた。一方隣接する幡豆郡は、2011年当時人口58,406人、面積84.56km²、人口密度691人/km²を擁していたが、3町は独自の運営をしていたが、消防組織は、幡豆郡3町で幡豆郡消防組合を運営しており、ゴミ処理については、旧幡豆郡の西尾市を加えた西尾幡豆広域連合で行い、処理場施設は吉良町に設置されていた。額田郡幸田町の西半分は、以前は幡豆郡豊坂村 注11であったが、1954年に幸田町と合併した。 この間周辺自治体との合併は検討されてきたが、長い間実現には至らなかった。ところが当時の市長(榊原康正)が中心となって強力に合併協議を進めた結果、2010年8月27日、幡豆郡3町(一色町・吉良町および幡豆町)との合併調印式が行われ、翌年の2011年4月1日、各町は当市に編入合併した。当時の3町の合併への意向は幡豆町は肯定的、比較的財政事情が良かった吉良町は消極的、一色町は是々非々であったが、「平成大合併」の最後のチャンスという時流に乗せられていった。
3 企業城下町の形成と変容
 企業城下町とは、ある特的の産業・企業の経済力に大きく依存した自治体・地域社会のことをいう。一般的には大都市圏よりも地方にそういう自治体は散在する。製造業では特定大企業の本社工場の立地が見られ、その工場の周辺に関連企業が集積するのが普通の姿である。しかも日本の場合は親会社・子会社という系列取引の関係で、物流コストからも従来的には近隣に関連工場が立地しているのが一般的であった。大量生産を前提として多くの部品から成り立っている自動車産業においては、周辺に工場が立地するのはある意味自然であった。したがって自動車産業の場合は本社工場を中心に企業城下町が形成される根拠があった。(豊田市・刈谷市や富士重工の太田市、ダイハツの池田市、マツダの府中町など)経済のグローバル化が進展していく1990年代までは、いわゆる親会社・大企業の周辺に子会社・中小企業が立地する古典的な企業城下町が中心であった。
 ところで西三河地域が企業城下町的性格を色濃く反映しているのは、この地に日本の自動車産業メーカーの雄であるトヨタ自動車ならびに関連企業が立地されたからである。そもそもこの地に立地されたトヨタ自動車ならびにトヨタ関連企業の起源は大正年間にさかのぼるという。注12 「豊田紡績(現トヨタ紡績)」ならびに「豊田自働織機製作所」が刈谷に立地されたことがルーツである。その後自動車部が発足し大規模の自動車生産のための用地が必要になったとき、候補地としてあがったのは、刈谷市以外にも大府市や半田市、碧南市があったという。ところがどこの用地も高く、当時としては破格値として提供してくれたのは発祥の地である刈谷市から20㎞も離れた挙母町(当時現豊田市)の丘陵地帯であった。後に自動車産業が日本経済を牽引する基幹産業に成長するのは、当事者の願望があっても夢物語であったのは事実であろう。ところがこの地は戦後高度経済成長を経て、愛知・東海・日本を牽引する一大産業集積地として成長していくことになった。
 高度経済成長以降の豊田市・刈谷市を中心とした西三河地域が広範囲な「企業城下町」であったことは多くの人が認めるところとなった。各企業の自治体の歳入の多くが企業の法人税に依存し、なおかつ遅れた社会的インフラの整備を「企業福祉」が補完することによって地域社会が成り立ってきた。実際に道路や病院などの施設はトヨタがまかなってきたものが多くある。また各自治体ではトヨタ自動車ならびに関連企業出身の議員が数多くおり、行政への影響も与えてきた。企業と一体化した地域社会の存続繁栄は誰も疑わなかった。だがこれは1980年代までのことであった。
 ところが1980年代から1990年代にかけて、トヨタ自動車だけでなく日本経済が大きな「激震」に見舞われることになった。1980年代半ばから始まったバブルの宴が1990年代にはじけるとともに従来の日本的システムは大きな転換に迫られることになった。「失われた10年・20年」といわれる時代の始まりであった。それと並行して経済のグローバル化も顕著になった。直接には円高を契機に生産拠点が海外に移転することになった。注13 同時に生産拠点の国内分散化も始まった。自動車産業の成熟化とともに、「経済成長」に依拠する従来のような右肩上がり経済は望めなくなった。日本的労使関係の「三種の神器」といわれた「終身雇用制」「年功賃金」「企業別組合」の動揺も始まった。この地域だけでなく不安定な身分の「非正規雇用の労働者」が数多く出現するようになった。高校生をはじめとした地元の若者の就職先もこれまでと同じような水準で確保するのも困難になった。外国人労働者も流入するようになった。町で工場で学校で外国人の姿を見るのは珍しくなくなった。明らかにグローバル化による地域社会の変化をもたらすようになった。西三河の総体が企業城下町ではあっても、自治体がこれまでのように企業に過度に依存することはなくなった。とともに西三河の各自治体が、様々な方向を模索するようになった。かつてのような単純に企業に依存する「企業城下町」としての性格が薄められようとした。この傾向を促す契機ととなったのが、2007年に始まるリーマンショックからトヨタショックに至る一大パニックに襲われた出来事であった。注14

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